ちょっと知らなかった話?!
〇ハワイアンのルーツ
1778年にキャプテン・クックがカウアイ島を発見した時、既にここには、人が居た。彼らは4つの部族に別れ、それぞれが階層制の酋長領を作り上げていた。最上級層が高位の酋長8アリイ)層と次位の首長、次に呪術師と熟練した職人からなる層、最後が平民層である。さらにこの下に奴隷や難民が居た。
クックは、これら住民がすでに見てきた他の太平洋の島人に身体的・言語的特徴が類似していることに気付いた。そして、彼らはすべて同一の起源をもつのではないか、と考えたのである。クックの考えは正しかった。ハワイの先住民たちは「ポリネシア人」として、ニュ-ジーランド、イースター島、マルケサス諸島、サモア、トンガの人々と同じ先祖を持っていたのだ。ポリネシア人が、何処から、いつ、どのようにしてこの地に渡ってきたのかは、長い問謎だった。クックの登場まで彼らの生活についても同様である。何故なら彼らは文字というものをもっていなかったからだ。また古代エジプト人、ギリシャ人、インド人、中国人と違い、芸術・建設・科学などの分野で人類の遺産と評価される物を残しているわけでもない。そのため長い間学者の関心を引く事も無かった。しかし戦後、考古学的研究が進められ、最近ようやくその成果が現れ始めたのである。
まず彼らの出身地。これは東南アジア起源であると言うことが、現代の学説では、ほぼ確定的とされている。
〇ラピタ人の大移動
現代の定説は、ポリネシア人は東南アジアを紀元前1300年ごろ出発、トンガやサモアなどに到着、以後1000年間この地にとどまり、この間にポリネシア文化が形成された。これまでの彼らは「ポリネシア」人ではなく「ラピタ人」というのが正しい。このラピタ人はポリネシア人だけでなく、メラネシア人、ミクロネシア人といった南太平洋の民族のすべてのルーツであるのだ。ラピタ人の文化は謎に包まており、ここ10年ほどオセアニア歴史民族学者の間では、トレンドとも言えるほど、研究者の間では人気が集まっているそうだ。
とにかく「ポリネシア人」がさらに移動を開始し、その文化圏を広げ出したのは紀元300年ごろから。マルケサス諸島からハワイに渡ってきたのは500年ごろと言われる。故郷を出発してから実に2000年の年月ののちにこの地にやってきたと思われるのだ。その後は1200年ごろ第2次は移住があるなど、同一民族間での移動はあったものの、18世紀まではハワイは先史時代ということになる。
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〇ブタよりイヌが上等の料理!?
クック船長が現れてから200年。その間に、ハワイアンの伝統的な生活はすっかり様変わりしてしまった。白人が現れるまで、彼らは、金属をを知らない「石器時代」を送っていた。原住民はパンの実をペーストした物やヤムイモやバナナなどを蒸し焼きにしたもの(ウム)を主食にしていた。ハワイから発見される資料の一つに釣り針がある。日本で見つかる土器のように、これらも時代ごとに変化がある層だ。その材料は人骨であるが、ここかからすぐに食人に結びつけるのは短絡的である。ハワイには古来大型哺乳類はいなかったと考えられている。一番入手しやすいのが人だったのだ。人骨から作った釣り針で彼らは漁をし、マグロ、タイメカジキ、等が食されたようだ。彼らは農耕も営んでいた、主にタロイモ、ヤムイモ等のイモ類やバナナなどが作られた。同時にイヌ、ブタ、ニワトリと言った家畜も飼っていた。これらはすべてハワイにいたのではなく、ポリネシアの移動とともに大陸より持ち込まれたものである。ハワイと同じポリネシアのタヒチでは、ブタよりもイヌのほうが上等の料理とされていたことが、クックの記録に見える。
謎が謎呼ぶ「ママラ伝説」 クックを刺したのは日本刀だった?!
ハワイには日本人にまつわる不思議な言い伝えばある。それもやたらに詳しいのである。
 ハワイ王朝7代カラカウア王の著した「ハワイの神話と伝説」の中に、1258年、オアフ島マカプー・ポイントに日本船と思われる「異形の船」が2回ほど漂着した、と記されている。
さらに、問題なのがその12年後だ、1270年、マウイ島カフルイ港に「ママラ」と呼ぶ船が漂着した。「カルイキアマン」を船頭とする男三人女二人は、皮膚の色は比較的白く、みな剣を持っていた。彼らは、のちに原住民と結婚して、ハワイにおける、色の黒くない種族の先祖になったと言う。また一説によれば,船頭の妹ともう一人の女は島の酋長と結婚し、三人の男達は、ハワイ貴族の夫人を娶ってこの地に永住し田と言う。コロンブスがアメリカ大陸を発見するのは1492年、キャプテンクックがハワイを発見するのは1778年。確かに、太平洋にはいまだに白色人種が来航した形跡の無い時代の事だ。前後の日本船らしき難破船の漂着を思えば、「ママラ」の一行を日本人と見なしてもおかしくは無い。「ママラ」という船名や「カルイキアマン」という人名は、「魔王丸」とか「軽井貴衛門」などの日本語が転訛して伝えられたのではないかと想像する人もいる。しかし、木原隆吉の研究によると船名その他は原住民語(カナカ語)から出たものであると言う。船名「ママラ」は「難破船」の事で、船頭「カルイキアマン」は塩水に落ちた小さな男の事であり、「漂流民」の意味をつそうだ。「ママラ」船には、もう一つ面白い伝説がある。それは、彼らがサトウキビを最初にハワイにもたらしたと言うのである。1929年にハワイ主組合から出版された「ハワイの糖業」の中に、砂糖の起源」について次のような記述がある。
 1778年キャプテンクックがハワイ諸島を発見した時、彼は様々な砂糖きびを見た。伝説によれば、砂糖きびは13世紀に日本線によって持ち込まれ、スペイン船による輸入は、それより200年後の事である。
 すると、ハワイの主要産業となった砂糖きびは、日本人がももたらした事になる。
日本に砂糖きびがもたらされたのは754年頃と言われている。琉球には、唐時代に砂糖きびが伝わり、植付けられていた、すると「ママラ」船は、日本船あるいは琉球船だったのだろうか?とにかく砂糖きびを積んだ船が、航海中に暴風雨に遭遇し、ハワイに流れ着いた可能性も無いわけではない。それにしても凄い伝説ではないか、日本とハワイが、700年以上も前から、赤い糸で結ばれていたなんて・・・ 。 ところで「ママラ」の人々の持ってた剣は、どうなったであろう?キャプテンクックがハワイを訪れた時、鉄器の存在を知らないはずの島民が剣を振りかざしていたのを見て驚いたと言われている。またこの頃、鉄類を欲しがった島民と乗組員の間で盛んに物々交換だ行われていル。クックを殺した剣とは、自らの交易がもたらした皮肉な結果なのか、それとも、「ママラ」の残した聖なる剣(日本刀?)だったのだろうか?


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